言◆読解力
映画や本などに、
私が求める最大級の条件は、
『切なさ』である。
『切なさを知らない人間は、人として半人前である』
とか、
『切なさの先にある希望』
なんてノーガキを事ある毎に、新海作品にあてはめたりして、
綴っているが、
もうひとつ重要なファクターがある…
それは、『読解力』である。
作品要素として、『読解力』を求められるもの
マタハ、
『読解力』を感じるものに、非常に興味をそそられるのだ。
思えば、新海誠さんの作品は、全てにおいて、どう思う?どう考える?というように、受け手側に解釈を依存する傾向が強い。
『読解力』を求めるという事は、判りやすさという観点と対極に位置するものであり、ともすれば難解という形容となってしまう。先にチラっと書いた「 メメント 」なんて映画は、受けて側の『読解力』を試すような作品だし、下手すればストーリーを負うだけで疲れ果ててしまうような作品である。
新海作品は、そこまで、難解という部類のストーリーではないが、宮崎駿に代表されるジブリ作品のような判り易いストーリーとテーマを持った作品という訳でもない。
しかしながら、暗に『読解力』を求める姿勢は、作品や彼のコメントに見てとれる。「友情」や「愛」や「対立」を明言しているわけではなく、事実を積み重ねていくような構成の作品群。NHKのトップランナーに新海さんが出演した際、『何かを感じてくれれば幸いです』みたいな事を言っている・・・その何かを明言したりはしない。
どう受け取るかは、受けて側の楽しみであり、思考する事の面白さを理解しているから出来るコトなのであろう。エンターテイメントを受け取る側として、受動的要素だけではなく、そこから先の何か?それがあった方が、面白いのでは無いか?そういう事なのであろう。私としても、そのような作品の方が長く楽しめて面白い。
答えの無いテーマ。それは、受けて自身の捉え方次第なのだ。もちろん作者が意図している部分はあるにしても それは、受けての自由なのだ。作者が想像もしなかった解釈が生まれたりする。それも含め、製作者の新海誠は楽しんでいるのかもしれない。
例えば、僅か25分という作品である『ほしのこえ』が、小説になり、まんがになった。それは小説を書いた大場惑さんの『読解力』であり、まんがを書いた佐原ミズさんの『読解力』なのである。それぞれが重点と感じたテーマで、原作を補完する形として、作品が発表されている。
このような形は、商業的意味合いでいうなら、売れ筋作品に便乗した2匹目3匹目のドジョウを狙っての事なのだろうが、そんな事よりも他の人がどう解釈したのか?というのが、作品となって読める事に、私は感謝したい。
私の場合、『読解力』というより、妄想力通り越して、暴走してると良く言われてしまうゆえ(藁、余計に、『読解力』に対する憧れは強く、他の人がどう見るのか、どう違うのかが判るという事は、視野を拡げる意味で興味深いのだ。
商業ベースにのる以上、作者個人での思惑とは違う事もあるとは思うが、多くの人が編集に係わったとしても違う味が出て面白い。そういう意味で、電車男の小説化をベースとした コミック化、映画化、ドラマ化、舞台劇などは、非常に興味深いネタであると思うのだ。
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